ランチョンマットの裏に落書き

いつもへべれけ

中年を過ぎた酒屋の三男坊 ぼんです。

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京都タワーサンド店で、パブリック様にランチョンマットを作成しようとしています。

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暇な人もいるかもしれないので

、裏に、伏見の歴史を・・・

こんなんです。

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京都でありながら、京都ではない伏見。伏見は、鴨川・桂川・宇治川・木津川 近畿圏の北部
すべての河が集まる場所です。平安の世、都の南に広がる巨椋池と呼ばれる当時日本で2番目に大きな湖の
岸辺の農村地で、平安貴族の別荘地でした。この地が大きく変貌するのは、安土桃山時代 豊臣秀吉が、
この地を治水します。そして、伏見城を築城して、区画を整備し、全国の武将や商人をこの地に集めます。
京の南の玄関口で、都を守護し、国を収める地、当時伏見は、日本の首都だったのです。
徳川の世になっても、3代将軍まで、この地位は、変わりませんでした。そして、その後江戸に
首都が写ったのち、伏見は、天領となり、東海道五十三次の54番目の宿場町として、また、淀川から、
高瀬川の荷を積み替える、日本で唯一の内陸の港町として繁栄します。この時期(1677年五将軍綱吉の代)に当店の蔵元は「塩屋源兵衛」として、
商いを興します。当初は、味噌・醤油の製造、酒の小売を商います。当時の日本酒の主たる製造地は、伏見ではなく、消費地である江戸に
海運でお酒を運べる灘が主産地となっていました。時代が進んで幕末、大政奉還後、徳川最後の将軍 慶喜が、幕府再興を陰で目論んでいる中、
大阪城に集結していた旧幕府軍は、都に進軍、薩長軍と伏見の地で相対します。「鳥羽伏見の戦い」です。慶応4年正月、旧幕府軍は1万5千、
対する薩長軍は3千、質・量ともに、幕府軍の絶対的優位に見えていた戦いでした。しかし、伏見は今と同じ町屋が密集した細い街道筋、幕府軍の作戦負けでした。
戦火は、薩長軍が錦の御旗を掲げたのを大きな期に、3日間で幕府軍は敗走、徳川300年の歴史が、たった3日で敗者・賊軍と変わった歴史的場所になったのです。
しかし、伏見の町衆にとっては、とんでもないとばっちりです。幕府軍が敗走した大手筋より南は、すべて焼け落ちました。当然、鳥せい本店のある場所は会津藩邸のすぐ南、全焼です。
今の本社屋は、その後すぐに再建されました。伏見の町は、京都でありながら                     城下町で、首都で、港町で、京の都と少し違う文化を持った街なのです。
鳥せい本店の北の突き当りは、会津藩邸、そこを東に行くと今は、跡すらなくなった
豊臣秀吉が最初に築城した指月伏見城、今は、明治天皇陵になった御陵の下に、
秀吉の2番目の伏見城、関ケ原の戦いのときに焼け落ちた後、その上に更に建てられた、
徳川家康の伏見城(今の伏見城の位置とは違います)鳥せい本店を南に行くと南浜、
船から馬車や荷車に積み替えていた馬場があり、運河沿いには寺田屋等の宿屋、敵の侵入を
守護する外様大名の藩邸(薩摩藩等)。京阪電車を境に坂の上が武家屋敷町、下が町人町、
その間に両替町通、銀座通と日本で初めてのの銀行街。当時を想像しながらの伏見散策、如何ですか?

伏見は広いので、これだけではありませんが、鳥せい本店周辺の伏見のお話です。いつも店にいないお酒担当が書いたものですので、史実と若干違うこともあります。お許しください。

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飛ばし過ぎですか?